大学受験フォーラムAIMの代表者の谷口裕亮です。
明日1月17日で阪神淡路大震災から30年。
あの地震は私の人生を変えた地震であったと言えます。
私はあの時、
奈良に住んでいて、
奈良の塾に社員として勤めていました。
地震のあった早朝、
奈良も震度4の揺れだったんですけど、
部屋のいろんな物が落っこちた。
テレビをつけると
徐々に詳細が分かってきて、
高架の阪急伊丹駅が潰れている映像、
阪神高速道路が倒壊している映像、
長田付近で多くの煙が上がっている映像、
そういうものを見るにつけ、
この世の終わりのような感慨を持ちました。
母と弟が芦屋に住んでいたのですが、
電話は不通。
すぐに行きたかったのですが、
公共交通機関が全て止まっています。
仕事もあるので仕方なく出勤し、
気もそぞろで授業もやって、
家に帰ってテレビを付けると
市町村ごとの亡くなられた方の名前が延々と発表されていました。
居ても立ってもいられず、
車で芦屋に向かおうとしましたが、
大阪方面に向かう阪奈道路が大渋滞でまったく進めず、
あきらめて家に帰り、
一晩中、
発表される死者の中に母や弟の名前が出て来ないかテレビ画面を睨んでいました。
翌朝、阪急電車が
梅田から西宮北口の間で運転を再開したというニュースが出たので、
西宮北口まで行きました。
駅から出ると、
道にはビルから降ったガラスが散乱し、
傾いているマンション、
傾いているビルがありました。
トボトボと芦屋まで国道2号線を歩いたんですが、
国道沿いのほとんどの家、ほとんどのビルが潰れていました。
母と弟は古い県営住宅に住んでいたので、
きっと倒壊しているだろうと思い、
覚悟を決めて歩いていました。
県営住宅の手前のマンションは
2階部分がペシャンコになっていて、
1階分、階数が少なくなっていました。
回り込んで県営住宅を見ると、
屋上にある大きな給水塔が地面に落ちていましたが、
建物自体は無事でした。
たまたま避難所から県営住宅に戻っていた、
昔から知っている おばさんが私を見つけてくれて、
母が無事に避難していること、
出勤途中に三の宮で地震に遭遇した弟も無事らしいことを聞き、
膝の力が抜けました。
あの西宮北口から芦屋まで
国道2号線を歩いてたとき、
『もしも母が無事なら これからは親孝行しよう』
と決意していたので、
その気持ちは今も変わりません。
芦屋の街のあちこちを見て、
それから奈良に戻りました。
高校への通学路、
その周辺を当てもなく歩き回ったんですが、
何もかもが めちゃくちゃになっていて、
まるで夢を見ているような気持ちでした。
授業もあるので、
仕方なく奈良に戻り、
上の空で仕事をし、
そこから3日ぐらいのことは ほとんど覚えていません。
人生で始めて
「生きるということ」
について本気で考えた体験でした。
地震から3年後に
このAIMという塾を立ち上げたんですが、
あの地震の時の体験、そして思いが
立ち上げに影響したことは間違いありません。
あの地震は本当に多くの人の人生を変えてしまった。
私も母も弟も
今も無事に生きていますが、
亡くなられた方、
また身内を亡くされた方を思うと、
今でも素直に喜べない気持ちがあります。
その後、
多くの地震がありましたが、
そのたびにあの阪神淡路大震災の時のことが
フラッシュバックのように甦ります。
30年経った今でも
正直に言うと心の整理がついていないというか、
あまりにもいろいろなことを考えさせられる経験だったので
処理しきれないというか、
そんな感じです。
でも、
地震前と地震後では、
私は確実に変わりましたし、
自分が生きている意味というのを考えるようにもなりました。
こんな過疎ブログで申し訳ないのですが、
あの地震で亡くなられた皆さんには哀悼の意を表したいです。
身体に、心に傷を負われた皆さん、
その傷が少しでも小さくなっていてくれることを願わずにはいられません。
あれから30年・・・・・・。
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